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函館日記

函館暮らしの日記

抹殺された民族意識による人格の歪みについて

なんだか、「日本人でよかった」とかいう国家主義的ポスターが一部で流行らされているみたいですが、 「日本人」という民族はいません

「日本人」というのは国籍による定義ですので、民族では大きく分けて、アイヌ人と沖縄人と和人で構成されています

実際には、この3民族はそれぞれ、地域ごとに言語や慣習がいくらか異なる地域民族で構成されています。

だから、古来は例えば、樺太(カラプト)と根室と小樽と室蘭で、それぞれのアイヌ人が同じ言葉を話していたわけではなく、語彙にもいくらか差異があったはずです。 例えば、那覇首里と、宮古島と、石垣島では、言葉が異なります。広い定義では沖縄語(うちなあぐち)ですが、島ごと、地域ごとに、言葉が異なります。例えば糸満今帰仁のような陸続きであってでさえも、言葉が異なっていたようです。

そして言うまでもなく、例えば津軽人と土佐人では言葉が通じません。 通じないほどに言葉が異なるのに、「和人」というカテゴライズをしているのはなかなかの強弁だと思いますが、大化の改新以後の律令体制においてすでに「やまと朝廷」による連邦国家が成立していたとすると、「和人」というのも国籍であり、そして千年以上の期間を経て言葉や生活慣習の一部が混淆したことで一応の強引な定義が行えなくもないという程度にはなったのかもしれません。

ですから本当は、古来も現在も、「和人」というのでさえもせいぜい、広い定義での民族でしかありません

実際には、各地域で異なる民族なのです。

それで例えば、いわゆる東北地方でも、抑圧されている民族意識がくすぶり続けているわけです。 明治維新で、版籍奉還廃藩置県が行われて、連邦制が否定され、東京政府の一方的な中央集権国家がつくられました。 それで例えば、会津は、中通り浜通りと強制的に合併させされて「福島県」にされました。 例えば、南部藩は分割され、南部地方の南部は「岩手県」に、北部は津軽と合併させられて「青森県」になったのです。

戊辰戦争は、薩長と奥羽越の覇権争いでした。 奥羽越がたで最後まで抵抗した人々が箱館に立て籠もったのが、「箱館戦争」と呼ばれ、彼らは「旧幕府脱走軍」という差別のレッテルを貼られ、史実を隠蔽されてしまっています。

「北海道」と呼ばれていますが、「北海道」だけ道州制で、都府県ではありません。 それは、アイヌ人の州(和人から見ると「渡嶋」)を植民地化したから、「蝦夷地」でも「アイヌ州」でもなく、「北海道」という名称が付けられました。 そして、戊辰戦争後の後始末として、明治維新で失業した人々の受け皿(移住先で就職先)としても植民地化され、移住してきた人々でコロニーが形成されたから、 道州制で、道庁の機関である支庁(現「振興局」)は「県」ではなく、跳躍して、市町村による行政が相対的に大きくなっています。

こうした史実と経緯がありますから、「道民」の意識や「道民性」には独特のものがあり、また、市町村や地域によって出自が異なります。 言語は混淆して、厳密な意味では、北海道語(いわゆる「北海道弁」)は実際には存在しません。弘前に行けば「津軽弁」、高知市に行けば「土佐弁」があるのと異なります。本当の地域言語はアイヌ語です。 「北海道」での言葉は、いわばクレオールみたいなものです。

市町村によって形成経緯(由緒)が異なり、例えば函館は、津軽系が圧倒的に優勢です。そういう意味でも「道民」というよりも「函館人」で、そういう言語や生活習慣をもっています。

函館人にせよ、津軽人や秋田人や会津人などの、広くいえば東北人にせよ、あるいはそれ以外の地域の「日本人」にせよ、 明治政府により、国家主義、地域民族を否定して「日本人」という民族をあたかも捏造するかのようなエセ民族主義が流布されました。その流れが未だに続いていて、呪い(洗脳)が解けていないのです。

かつて、小説家で劇作家の井上ひさし(故人)が「吉里吉里人」(きりきりじん)という物語を書きました。 この話は、吉里吉里という東北地方の一地域の人々が民族意識に目覚め、日本国から独立する話です。

本当のことを言われてしまうと、国民が真実に気づいてしまうので、日本国家の権力構造が揺らぐ可能性があるかもしれないので、既得権益者からすると、こうした表現を抹殺したくなります。

吉里吉里人」はあくまでもフィクションとして井上ひさしが仮託したから、当時であれば露骨な言論封殺の対象にまではなりませんでした。戦後昭和時代の、バブル崩壊前くらいまでの一時期は、フィクションのかたちをとっていれば、本当のことを言っても弾圧はされなかったわけです。そして、本当のことを言ってくれる人を、どこかの教養人だとか資本家だとかが擁護もしてくれていました。だから、井上ひさしにせよ、例えば岡本太郎にせよ、活躍の場が、生計を立てる途が、与えられていました。 今だったら、社会の表舞台にどこまで出ていけるでしょうか。井上陽水みたいに賛成も反対もしないで我が道を行くのであれば、それもひとつの生き残り手段です。山本太郎は、拾ってくれる資本家があって、国会議員にもなれたから、まだ将来の可能性は消されてまではいませんが、かつての言論の勢いが続くかはわかりません。「美味しんぼ」は物凄い勢いで弾圧されましたし、ギャラの高いベテラン芸能人は次々にテレビから引退させられていき、権力に馴れ合っていればなんとかほそぼそと生き残れるような状況です。

江戸時代以来、政治権力は恐怖による統治を行い、強権を振るってきました。 公権力が法令を、例えば「犯罪」を一方的に定義し、刑罰を見せしめとして行って畏怖させてきました。それで例えば「万引きは犯罪です」とか「飲酒運転は法律で禁止されています」とかいって、合理的な思考や危険予測意識を奪って、「違法だからダメ」「犯罪だからダメ」という発想しかもてない、脳が萎縮した愚か者にしてきたわけです。 そうして、「長いものに巻かれる」(権力に隷従する)人間になっていき、権威権力に依存し甘える気質が完成されたわけです。

函館の政治経済も、地元資本や行政は、国政にきわめて依存的です。 (そもそも、依存しないとやっていけないように中央政府がつくってきたわけですが、例えば地方交付金とか。財源が中央政府に握られ、カネの流れが東京に握られているので、「地方」は景気が良くなる要素がありません。)

抑圧され存在否定された自己を、なんとかして回復したい、あるいは忘れたい、そういう衝動が起こります。 国家権力に依存し、地域民族意識を抹殺されたことで失われた誇り(ココロのスキマ)を、「日本人」という捏造されたアイデンティティで埋める人々が多いのです。 こうして、精神が、人格が歪み、思考行動形態がくるってしまいます。 能動的な思考行動をしなくなります。「自分の頭で考える」ことをしなくなります。自治意識が失われます。自分で考えず決めないのですから自己責任も成り立ちません。

娯楽も、喫煙も、飲酒も、賭博も、社会を直す努力や自己と向き合うことをしないで「忘れる」ために行われることが多いのです。 国家権力からしても、そうやって目を背けて忘れられるような手段を用意して、国家構造を死守してきたのです。

このように、日本国というのはきわめて歪んだ国家ですし、日本人というのは歪んでいます。 そのことに気づいていれば、日本人の思考行動パターンの奇特性は理解しやすいでしょうし、函館人の気質も解りやすいでしょうね。