函館日記

函館暮らしの日記

自分に都合の良いところだけ採り上げて、現実逃避と情報操作をする人々【函館マラソン】

函館人だけではなくそもそも日本人の傾向ですが、自己中心的でエゴイスティックです。

とりわけ近年は日本礼賛が目立ちます。そうして現実逃避をするのは愉快でしょうが、 妄想(ヴァーチャル)に引きこもっているから他から取り残されるのだし、恥を晒しているのです。 近頃は、おかしなのをプレジデントに選んだアメリカもそうですが。

函館マラソンをみていても、典型的です。 自己中心的で、アマチュアランナーの参加者を募集しているのにそうした参加者の視点が欠けているし、責任感も欠けています。

コースがよくないことを、粉飾して世論操作をするために、都合のいい方に執拗に喧伝しているのもそうです。 催行態勢や案内なども自己中心的で、コースの話は一例にすぎませんが。ウェブサイトにしても、一部のファン(親衛隊)だけ喜んでヨイショするようなウチワの世界になっています、かなり。

2017函館マラソン準備状況 part2 【 第23回 平塚先生語録(その1)】を掲載しました! | 未分類 | 2017函館マラソン」(hakodate-marathon.jp)

本当は悪いことを知っているくせに、その現実から逃避し、その逃避する姿をよそから見られても平然としているからなおさらダメで、救いようがありません。

都合のいいことを言ってくれる人がいることをこれ幸いにして、そこだけ採り上げて強弁するわけです。いわゆる「御用学者」を利用するのとかと同じですね(笑)

コース中に石畳があるなどの路面の問題にしても、別大とか福岡国際とかのエリートランナー専門の大会ならばまだしも、アマチュアランナーを募集している大規模になりたがっている大会なのですから、よくありません。 負傷したらどうするのでしょうか。

北京オリンピックだとかには石畳がガッツリあったように憶えていますが、オリンピックや世界陸上なんかはエリートランナー向けの特別な大会で、参加者はシッカリ下調べして走っています。彼らは路面がよくなくても承知の上で自己責任で走っています。

函館マラソンは、観光目的のアマチュアランナーの参加者がいるのは明らかなわけで、そうした層が初参加時にコースや路面を下調べしてくるとはかぎらないし、主催者が情報提供をしていなければ判らないことが多いでしょう。

情報提供がされていないところに自己責任は無い。アマチュアの一般人が初参加するから普通の大規模大会では、コースや催行態勢にはとても配慮します。

実質的に函館市が主催している大会ですから、どっかの零細団体が主催している大会と異なり、自己責任論で押し切れるものでもないでしょう。 例えば、どこぞの北マラソンみたいに夏の大会なのに出るのが水だけみたいなアマチュア向け大会も世の中にありますが、それこそどこぞのラジオ体操の団体がやっているような大会だし、「厭なら出なけりゃいいだけ」という話です。 で、函館マラソンは、厭なら出なけりゃいいので、一般人が誰も参加しなくなってもいいんでしょうね(笑)。 フルマラソンに参加する招待選手が少ないのは、選手層の薄さ(実業団の人々は駅伝やハーフが主眼)が主因とはいえ、原因はそれだけではない。

ハーフマラソンのコースは、ともえ大橋や跨線橋も、石畳や七財橋も、無い。走りやすく、公式の記録をとる大会としてよい方の大会だから、函館ハーフマラソン時代から実業団の人々が参加して走っています。函館ハーフは、エリートランナー向きの玄人志向の大会でしたし、それでかまわなかったわけです。

函館(フル)マラソンにしたのは、「単にハーフの2倍の距離にしました」という話ではありません。 フルマラソンにはハーフにない辛さがあるというのも勿論です。 しかしそれだけでは済みません。最大の要素は、よその都市型マラソンの真似をして、多くのアマチュアランナーを各地から大々的に募集する大会にした、ということです。

自己中心的なヴァーチャル世界に引きこもっているから現実世界から取り残されて、例えば、景気が悪い、移住者が少ない、といったことが起こっていますが、 さらに恐ろしいのは、自分に都合のよいところしか見ないようにわざとしている姿を他人から見られているということなのです。 いちいち言い訳をし、さらには「自分は悪くありません」と公言するかのごとく、「自分の方がフツーであんたがオカシイ」という態度をとる。

函館人が典型例でありますが、日本人をみていると、とりわけ近年が、安倍時代がそうですが、愚かで残虐なことをし、その姿を晒して平然としていますよね。 で、それを「誇り」と称したりもしますよね。 そんなのは思い上がり(偉そうにするの)であって、誇り(偉いの)ではありません。 立派ではなく、まことに卑しいです。

率直に言って、これならば、やらない方がいいです

やる気がないんだから、やめましょう 

怖いです。コースだけではなくて、運営している人も。

人は、経済やスポンサーのおもちゃではないです

税金勿体無いし、ハーフだけでいいんじゃないですかもう  走るんなら函館じゃなくて青森とか洞爺湖とか札幌とか行った方がましな気がします  どうせ函館は道路事情が悪いですし

明治(製菓)が経営縮小していく件

それにつけても、カールが地域限定商品になるそうですね。 京都府滋賀県奈良県和歌山県の以西にしか出荷しなくなるようです。四国の工場で製造してまかなえる範囲でのみ卸すようですね。

サイコロキャラメルが北海道限定商品になったのと同じだと思います。 あの有名商品だったサイコロキャラメルも、売れ行きが減って、函館(千代台町)にある系列会社(道南食品)が製造していることから、北海道限定商品に規模縮小しました。

キャラメルは特に市場自体が小さいなかで、グリコと森永が強いので、明治はなおさら売れなくなったのだと思います。

そしてついに、コーンスナックにも流れが来たわけですよね。 コーンスナックでも、明治にはシェアなんてあまりなく、ジャパンフリトレーとか湖池屋とか(うまい棒の)リスカとかが強い。しかもこれらは関東圏の企業。 人口はいわゆる首都圏が圧倒的でも、カールに勝ち目ないんでしょうね。


そもそも経済退潮、底なしの不況のなかで、消費税率まで上げられたので、値上げするか原価下げるかして粗利を出さないといけない。ところが、定番商品は値上げをしづらいし、シェア後位だと値上げをしたら売れなくなるでしょう。カールが無くたって、代わりなんてありますから。

定番商品そのものでなければ、近年(とりわけアベ政権になって)、粉振って味変えたりだの、なんか改造しただけで物凄い高価な商品を売るようになりましたよね。もとは山芳やプリングルスうまい棒なんかの得意技だった、粉で味を変えるってのを、平然と大手メーカーがまたぞろやるようになりました。そして、粉振っただけで高価になる。

カルビーなんか、ポテトチップスの原材料を変えてパリパリからパサパサにしてでも原価を下げました。「ポテトクリスプ」だとかいうチップスタープリングルスの類似商品である、ポテトフレークの成形加工品を、ポテトチップスブランドで売り出しましたし、これも原価に比して物凄く高価。

まるで詐欺です。


明治乳業明治製菓が統合した時に既に、経営縮小戦略だったのだと思うのですよね。

ライバル企業は、買収、再編で、原材料の異なるスナック菓子に乗り出して相乗りをしていくようになりました。 それに、コンビニで108円で売られているようなワンプライスのPBに供給するようにして、定価売りなので粗利が確保されるんでしょうね。コンビニPBは価格が先に決まっているので、量で調節して、単価自体はむしろ高いので粗利は多いです。

他方の明治は、そういう経営戦略を、おそらくはわざと、採らなかったわけですね。

しかし、スーパーマーケットとかドラッグストアとかで売られる通常版の方が値下げ売りされるし、それを定価売りしても売れないので、全体として販売総数がつらくなってきます、売れないからといっても卸価格をさらに値下げしては出せないからもはや打つ手なしです。

きっともう、明治(製菓)は、チョコレートでしかライバルに勝てないんだと思います。チョコレートは、明治かロッテかですから。それも、板チョコレートだと売価が低いので、「アポロ」とか「きのこの山」「たけのこの里」みたいな高額商品の方がきっと、割がよいでしょうね。 それでも、「きのこの山」みたいなビスケットだとまだよいんですが、コーングリッツとの組合せ商品だと、リスカでもギンビスでも造っているので、勝てない。 いやそれどころか、チョコビスケットでも、ブルボンや、正栄デリシィとかにすら、負けることもありえます。

例えば、グリコもジャイアントカプリコとか造っていますけれど、最近はコーンの無いチョコだけの商品なんかをむしろ高価格で売り出していて、ドン引き(苦笑)です。それって、アポロの類似商品なんじゃない?  そんな風に、既存品そのものでは高く売れないので、奇を衒うものが多発しています。

このように、物凄い不景気と消費税上げのなかで、低価格が求められる菓子市場が際立って殺伐としています。 日本社会、いよいよ詰んだというか、底なし地獄って感じです。

抹殺された民族意識による人格の歪みについて

なんだか、「日本人でよかった」とかいう国家主義的ポスターが一部で流行らされているみたいですが、 「日本人」という民族はいません

「日本人」というのは国籍による定義ですので、民族では大きく分けて、アイヌ人と沖縄人と和人で構成されています

実際には、この3民族はそれぞれ、地域ごとに言語や慣習がいくらか異なる地域民族で構成されています。

だから、古来は例えば、樺太(カラプト)と根室と小樽と室蘭で、それぞれのアイヌ人が同じ言葉を話していたわけではなく、語彙にもいくらか差異があったはずです。 例えば、那覇首里と、宮古島と、石垣島では、言葉が異なります。広い定義では沖縄語(うちなあぐち)ですが、島ごと、地域ごとに、言葉が異なります。例えば糸満今帰仁のような陸続きであってでさえも、言葉が異なっていたようです。

そして言うまでもなく、例えば津軽人と土佐人では言葉が通じません。 通じないほどに言葉が異なるのに、「和人」というカテゴライズをしているのはなかなかの強弁だと思いますが、大化の改新以後の律令体制においてすでに「やまと朝廷」による連邦国家が成立していたとすると、「和人」というのも国籍であり、そして千年以上の期間を経て言葉や生活慣習の一部が混淆したことで一応の強引な定義が行えなくもないという程度にはなったのかもしれません。

ですから本当は、古来も現在も、「和人」というのでさえもせいぜい、広い定義での民族でしかありません

実際には、各地域で異なる民族なのです。

それで例えば、いわゆる東北地方でも、抑圧されている民族意識がくすぶり続けているわけです。 明治維新で、版籍奉還廃藩置県が行われて、連邦制が否定され、東京政府の一方的な中央集権国家がつくられました。 それで例えば、会津は、中通り浜通りと強制的に合併させされて「福島県」にされました。 例えば、南部藩は分割され、南部地方の南部は「岩手県」に、北部は津軽と合併させられて「青森県」になったのです。

戊辰戦争は、薩長と奥羽越の覇権争いでした。 奥羽越がたで最後まで抵抗した人々が箱館に立て籠もったのが、「箱館戦争」と呼ばれ、彼らは「旧幕府脱走軍」という差別のレッテルを貼られ、史実を隠蔽されてしまっています。

「北海道」と呼ばれていますが、「北海道」だけ道州制で、都府県ではありません。 それは、アイヌ人の州(和人から見ると「渡嶋」)を植民地化したから、「蝦夷地」でも「アイヌ州」でもなく、「北海道」という名称が付けられました。 そして、戊辰戦争後の後始末として、明治維新で失業した人々の受け皿(移住先で就職先)としても植民地化され、移住してきた人々でコロニーが形成されたから、 道州制で、道庁の機関である支庁(現「振興局」)は「県」ではなく、跳躍して、市町村による行政が相対的に大きくなっています。

こうした史実と経緯がありますから、「道民」の意識や「道民性」には独特のものがあり、また、市町村や地域によって出自が異なります。 言語は混淆して、厳密な意味では、北海道語(いわゆる「北海道弁」)は実際には存在しません。弘前に行けば「津軽弁」、高知市に行けば「土佐弁」があるのと異なります。本当の地域言語はアイヌ語です。 「北海道」での言葉は、いわばクレオールみたいなものです。

市町村によって形成経緯(由緒)が異なり、例えば函館は、津軽系が圧倒的に優勢です。そういう意味でも「道民」というよりも「函館人」で、そういう言語や生活習慣をもっています。

函館人にせよ、津軽人や秋田人や会津人などの、広くいえば東北人にせよ、あるいはそれ以外の地域の「日本人」にせよ、 明治政府により、国家主義、地域民族を否定して「日本人」という民族をあたかも捏造するかのようなエセ民族主義が流布されました。その流れが未だに続いていて、呪い(洗脳)が解けていないのです。

かつて、小説家で劇作家の井上ひさし(故人)が「吉里吉里人」(きりきりじん)という物語を書きました。 この話は、吉里吉里という東北地方の一地域の人々が民族意識に目覚め、日本国から独立する話です。

本当のことを言われてしまうと、国民が真実に気づいてしまうので、日本国家の権力構造が揺らぐ可能性があるかもしれないので、既得権益者からすると、こうした表現を抹殺したくなります。

吉里吉里人」はあくまでもフィクションとして井上ひさしが仮託したから、当時であれば露骨な言論封殺の対象にまではなりませんでした。戦後昭和時代の、バブル崩壊前くらいまでの一時期は、フィクションのかたちをとっていれば、本当のことを言っても弾圧はされなかったわけです。そして、本当のことを言ってくれる人を、どこかの教養人だとか資本家だとかが擁護もしてくれていました。だから、井上ひさしにせよ、例えば岡本太郎にせよ、活躍の場が、生計を立てる途が、与えられていました。 今だったら、社会の表舞台にどこまで出ていけるでしょうか。井上陽水みたいに賛成も反対もしないで我が道を行くのであれば、それもひとつの生き残り手段です。山本太郎は、拾ってくれる資本家があって、国会議員にもなれたから、まだ将来の可能性は消されてまではいませんが、かつての言論の勢いが続くかはわかりません。「美味しんぼ」は物凄い勢いで弾圧されましたし、ギャラの高いベテラン芸能人は次々にテレビから引退させられていき、権力に馴れ合っていればなんとかほそぼそと生き残れるような状況です。

江戸時代以来、政治権力は恐怖による統治を行い、強権を振るってきました。 公権力が法令を、例えば「犯罪」を一方的に定義し、刑罰を見せしめとして行って畏怖させてきました。それで例えば「万引きは犯罪です」とか「飲酒運転は法律で禁止されています」とかいって、合理的な思考や危険予測意識を奪って、「違法だからダメ」「犯罪だからダメ」という発想しかもてない、脳が萎縮した愚か者にしてきたわけです。 そうして、「長いものに巻かれる」(権力に隷従する)人間になっていき、権威権力に依存し甘える気質が完成されたわけです。

函館の政治経済も、地元資本や行政は、国政にきわめて依存的です。 (そもそも、依存しないとやっていけないように中央政府がつくってきたわけですが、例えば地方交付金とか。財源が中央政府に握られ、カネの流れが東京に握られているので、「地方」は景気が良くなる要素がありません。)

抑圧され存在否定された自己を、なんとかして回復したい、あるいは忘れたい、そういう衝動が起こります。 国家権力に依存し、地域民族意識を抹殺されたことで失われた誇り(ココロのスキマ)を、「日本人」という捏造されたアイデンティティで埋める人々が多いのです。 こうして、精神が、人格が歪み、思考行動形態がくるってしまいます。 能動的な思考行動をしなくなります。「自分の頭で考える」ことをしなくなります。自治意識が失われます。自分で考えず決めないのですから自己責任も成り立ちません。

娯楽も、喫煙も、飲酒も、賭博も、社会を直す努力や自己と向き合うことをしないで「忘れる」ために行われることが多いのです。 国家権力からしても、そうやって目を背けて忘れられるような手段を用意して、国家構造を死守してきたのです。

このように、日本国というのはきわめて歪んだ国家ですし、日本人というのは歪んでいます。 そのことに気づいていれば、日本人の思考行動パターンの奇特性は理解しやすいでしょうし、函館人の気質も解りやすいでしょうね。

五稜郭公園前に引っ越した無印良品が繁盛している

無印良品が、函館駅前の棒二森屋アネックスから、五稜郭公園前電停正面のシエスタ(Share Star)函館に引っ越しました。 https://www.muji.com/jp/flagship/share-star-hakodate/
見てきましたが、とても繁盛していました。

棒二森屋アネックスに入っていた頃は空中店舗でしたが、国外観光客をはじめそこそこ来店客はありました。
それが、五稜郭公園前だと観光客の来店は減りますが、そもそも無印良品は若中年層の中高所得者向けの店なので、貧困と高齢化の進む函館山寄りよりも、五稜郭公園前(本町)の方が客層が合っていますよね。客層からいっても、棒二森屋よりも丸井今井の方が一致しています。
そして、シエスタの1〜3階を借りたので増床したことになりますが、1階に出店していることの客寄せ効果は多大です。五稜郭公園前電停すぐなので、一等地です。一等地に出店しても採算が取れるという計算が合ってのことでしょうが、それだけの売上がある店って、不況と社会衰退のなかでは限られますよね。無印良品は高価格高粗利なので、ブランドイメージに合ったリッチな立地になったと思います。ただ、従業員からすると、忙しすぎるのが現状だと思います。
店内も、無印良品らしく陳列にこだわった余裕のあるつくりで、小さな心斎橋難波店みたいな印象を受けました。かなり力を入れているようです。店舗面積が広いので、カフェや書籍コーナーまでつくれましたしね。
札幌ばかりに集中している世の中で、札幌よりも函館に力を入れてきた無印良品のコストパフォーマンス感覚と思い切りの良さは大したものだと思います。

課題は、今後も集客を保てるかどうかですね。
もしも売上が目減りしたら、テナント費がかさんで苦しくなるでしょうから。

ちなみに、ブランドイメージがそれほど高くないような店であれば、本町よりも、より北の新興地の美原や昭和の方が向いているものと思われます。
無印良品だから、自動車で買い物に行かない人も顧客層で、駅前出店が多いのでしょうね。

同時期の新築物件でも、函館駅前のキラリスとは好対照で、シエスタの方は商業的には成功したという印象があります。
ただ、同じ本町でも、人目につきにくいと悲惨なようで、飲食店ビルの「五稜郭ガーデン」なんかは閑古鳥鳴いているらしいですけれどね(このペースでいくとそのうち、ネット上で「ヤバイ」とネタになりだしそうな気がします)。

【函館マラソン】都市型マラソンの意義が解っていない人々

今年の函館マラソンは、定員を満たして応募を締め切るまでに、随分と期間がかかりました。

応募が進まない原因として主催者は、今年は応募受付開始を早めたのに対して、宿泊施設が不足していた(一般の宿泊予約受付開始日が来ていなかった)からだ、と言っています。
かりにそうだとしても、容易に予測可能なことをなぜ判らなかったのか、という疑問をもつはずです。
実際には、判っていてやったのでしょう。宿泊斡旋を取りまとめるJTBの売上に繋がるからです。そして、用意していた客室が足りなかったということはもちろんですが、宿泊を斡旋してもらうつもりがない応募層がそれなりにあるということがあるからでしょう。
強引な営業手法です。

マラソン大会を開催しても大概は赤字ですので、スポンサーが稼げるようにあの手この手を尽くすのでしょう。
それは函館に限ったことではありません。
だから、スポンサー優遇を必要悪だと思う人も多いでしょう。

しかし、問題の本質はそこではなくて、大会が、参加者本位になっていないというところにあります。

例えば、今年も、おそらく強風を受けるであろうコースのままです。ともえ大橋と中央埠頭跨線橋を往復しますし、市道高松新湊線(戸井線(鉄道未成線)路盤跡の転用道路)はおそらく向かい風を受けることになるでしょう。
函館は海上都市です。そして、かなりの確率で西風、たまに東風。ともえ大橋は横風で、戸井線は往復の一方が向かい風です。
それでは、記録を狙えません。とりわけ、ともえ大橋と中央埠頭跨線橋の往復が苛酷です。

さらにいえば、七財橋付近の石畳が走るのに向いていません。
これは、金森赤レンガ倉庫群の前をはじめ、東浜桟橋、つまり旧桟橋付近をコースに入れるためだろうと思われます。そして、金森赤レンガ倉庫群前が石畳なのです。

記録は狙えず、さらに、天気によっては修験道の域に達するような苛酷なコースなので、相応のマゾヒストや修験者くらいでないと走りたがらないでしょう。
本来のフルマラソンは練習すれば多くの人が完走自体は可能なスポーツなのに、主催者や道南陸協はマラソンに偏見でもあるのでしょうか*1

観光目当てとしては、旧桟橋付近くらいしか名所がないコースです。
五稜郭公園をかすりもしませんし、元町も十字街も通りません。
見どころは景色くらいかもしれません。

記録を狙えないし、観光にもならないとなると、参加者の目当ては何になるのでしょうか。
それは、食べ物目当てです。
だから、参加者の主催者に対する反応・要望の多くが、エイドで出る食べ物です。
それで、昨年は食べ物の多くが終盤の「緑の島」に集中していたため、遅い参加者は目当ての食べ物にありつけなかったので苦情が出ました

しかも嘆かわしいことに、支給される食べ物の目玉が、函館や道南にかすりもしない夕張メロンです。
スポンサーに果物屋があるのはいいとして、ウリが、七飯町のりんごとかでなく、夕張メロンというのは、的外れもいいところです。
正直に言って函館と関係無い夕張が出てくるのは、世間が十把一絡げに北海道を都府県並みに思っていることに合わせた自虐ネタなのでしょうか?


何故悪いコースのままなのか、原因を思うに、交通規制を可能なかぎり少なくしたいからでしょう。

では、何故、交通規制を少なくせねばならないのでしょうか。
それは、マラソン大会開催についての地元コンセンサスが足りないからです。
観光産業でさえも、交通規制をかけられて迷惑だと思っている業者があるくらいでしょう。

何故コンセンサスが得られないかというとそれは、参加層が狭いからです。

例えば、五稜郭祭や港まつりなどでは毎年交通規制をかけていて、港まつりの交通規制に至ってはきわめて大規模です。しかし、実際に行われているのです。
何故行えるのか、ひとことで言えば、「誰にも関係がある」と思われているからです。

他方の函館マラソンは、参加層が狭く、一部のランナー(それとマゾヒスト?)くらいにしか関係が無いと思われているわけです。
だから当然に「マラソン大会なんかで交通規制をかけられて迷惑」という苦情が出ます

だから例えば、10kmの部やファンランの部を設けるなどして参加者の裾野を広げれば、交通規制をかける理由になるのですよ。
それは、港まつりが、誰でもパレードに出られるから交通規制をかけてかまわない、というのと同じ論理です。

そして実際に、参加者層が厚ければ、地元住人の福利厚生につながります。例えばファンランの部があれば、歩いて完走も可能です。反対に、現状のように、従来のハーフマラソンと、それを拡張した「なんちゃって」(エセ)都市型フルマラソンでは、参加可能な人がとても限られます。
地元住人の多くの福利厚生になれば、少々赤字でも構わないという理由になりますし、市が実質的な主催者になってよい理由になるのです。
港まつりであんなにいか踊りやっている人々だから、ファンランやれば根付くと思うのですよ。それに、ファンランがあれば観光客がついでに参加もしますよね。

端的に言いましょう。
「都市型マラソン」とは、デモクラシーです。デモクラシーとは、利害関係者の誰もが参加する(参加しうる)ということです。他方の日本社会というのは、一部の人間だけでものごとが決められ、社会が回されています。
つまり、特別な人(トップアスリート)だけが参加可能だったマラソン大会と異なり、ほぼ誰でも参加可能なマラソン大会です。だから、仮装などしておまつり騒ぎをする大会もあるように、マラソン大会が住人のいわば誇りになっていて、祝福されるべきものであるわけですよ。

他方の函館には真のデモクラシーが無いから、都市型マラソンの意義だって解らないわけですよ。
函館の「民主主義」というのは要は、近世・近代日本型の資本主義、社会経済本位の思想です。だから当然に、地元資本が優越し、カネの論理でものごとが動かされます
そして、封建的、儒教的、権威主義的で、港まつりや五稜郭祭のように権威が音頭を取って始めたものは尊重されます*2。他方で、社会の既成構造に悪影響の出ることは疎まれ嫌われます。

そして、「函館とはこういうところだ」とか「日本人とはこういう連中だ」とか、よそからは思われていますよ。
その恥を知らないといけないと思います。

*1:フルマラソンをまともに走ったことのない人(駅伝とか走っている人)が運営しているからなのでしょうし、まともに走ってきた人の意見を封殺しているからでしょう。大会運営に協力しているよその企業なども口出しが困難だし、また、よその人は地元の天候風土には疎いのでコースがどうなるかを熟知していないのでしょう。だから昨年は、強風を想定したコース設定や運営準備だってしなかったわけですよ。

*2:ためしに道南陸協のウェブサイトでも見てくださいよ。北海道陸協や札幌陸協と見比べてください。酷いですよ。ウェブサイトくらいつくれる人は沢山いるはずなのに未だに酷いのは、つくれる人を参加させないで、狭い身内で回しているから。函館高専の学生とかにでも頭下げてやってもらえればいいのにねえ。そして、地元議員の名をでかでかと連ねているように、権威主義。そのレベルの人しか陸協の中に居ないってこと。これはどっかの村でしょうか。